上善は水の如し
水は善く万物を利して争わず
衆人の悪む所に処る
故に道に幾し
老子は、ありきたりの日常に甘んじている凡庸な生き方を、人間本来の生き方だと考えた。
だから、人は放って置いても、鳥が自然に空を飛び、魚が自然に水を泳ぐように、まわりの仲間と助け合って穏やかな生涯を送りうるのだ。
人間は平凡な日常に喜びを感じ、それだけで充ち足りるように出来ているのだ。
ところが人間には、本来の生き方に満足できず、衆に抜きん出た存在になろうとする欲求がある。
平凡な生活に軽侮の目を向け、独り上座を狙う上昇欲求を持っている。
老子にいわせると、こうした人間は一種の病人であり、自ら破滅を求める「死の徒」だということになる。
本来の生き方に満足できない人間は、安全な母港を捨てて荒海に乗り出し、難破する愚者のようなものだというのである。
老子は、世俗が善とする生き方──現状に甘んじないで意欲的に行動する努力家を評価しない。
老子にあっては、世俗の常識が完全に逆転していて、刻苦精励する生き方を捨てて、イージーな生き方、楽な生き方をすることこそが善なのである。
なぜ楽な生き方をするのが善であるかといえば、そこに生まれる余力が他者への慈愛として振り向けられるからだ。
老子は、自分には三つの宝があると語っている。
座を狙わずに下座に甘んじ、悪あがきしないで節倹に努めていれば、他を愛する余裕が生じる。
だから、下座にあること、節倹すること、他者に慈愛を注ぐことの三つが「三宝」だというのだ。
人は、生きている限り欲望を持たないではいられない。
その欲望には、偉くなりたい、金持ちになりたいというような卑俗なものから、自己実現をしたい、善をなしたいというような「高尚なもの」まで、数限りなくある。
釈迦はこうした欲望を捨離して生きることを求めたが、老子は欲望を否定してはいない。
彼は、ただ、欲望を充たすために、過度に頑張ることを戒めているだけなのである。
とにかく、頑張りすぎることは禁物で、濁って先が見えないような状況も、静かに対応していればおもむろに澄んで、その全貌が見えてくるし、事を成し遂げようと思ったら、安らかにして静かに待つことなのである。
そうすれば、自然に目的を達しているものなのだ。
フーン そうなのかねえ・・・